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08.09.15 60稿にてWEB研究室を『なか締め』といたします。しばらくご猶予をお願いします。谷口
08.05.25 第54稿から第9WEB研究室を開設しました。 
 08.05.04 祝1周年 谷口名誉教授に「上野原の市民は何を目指すべきか」をテーマにしてご寄稿をお願いしてから、早や1年が経過しました。WEB研究室は第51講を掲載するまでになりました。谷口名誉教授に1周年のお祝いと感謝を申し上げます。
上野原インフォメーション一同
特集 テーマ  上野原の市民は何を目指すべきか
 『付加価値創出のためのビジネスの基礎固め』
第60講  私のビジネス ディシプリン論-その7(中締め)
第59講  私のビジネス ディシプリン論-その6
第58講  私のビジネス ディシプリン論-その5
第57講  私のビジネス ディシプリン論-その4
第56講  私のビジネス ディシプリン論-その3
第55講  私のビジネス ディシプリン論-その2
第54講  私のビジネス ディシプリン論-その1





第60講

私のビジネス ディシプリン論−その7

『なか締め』のためのエピローグ


『なか締め』の口上

本日、『上野原市民は何を目差すべきか』その60をもって、平成19年4月23日にはじめた谷口ウエノハラ研究室による『上野原市民は何を目差すべきか』という連続投稿を『1本締め』によって『なか締め』とさせて頂きます。

お手を拝借! 『よーお! パン!』 ありがとうございました。

前回第59回を寄稿したのは7月27日でした。それ以来50日間、私はあることに夢中になっておりました。何に夢中になっていたか。8月25日に通算6期22年間上野原市の政(まつりごと)を支えてこられた奈良市長が来年3月の市長選挙に不出馬を表明され、これから半年間、選挙を通して『上野原市民は何を目差すべきか』が問われることになりました。『上野原市民は何を目差すべきか』について書き・記してきたことが、いよいよ選挙という本来の場で問われることになったのであります。私が夢中になっていたことは、上野原市における選挙の在り方その他の調査・研究と構想でありました。その内容については稿を改めて書きはじめることにいたします。

その前に、前回、『私の組織運営哲学』― その3で述べた『スータビリティー』(目的適合性)』と並んで1942年に初版が作成されたアメリカ海軍大学の『健全な意思決定』が述べているあと2つの健全な意志決定のための判断基準について述べることにいたします。

『スータビリティー』という第1の判断基準は、『目先の目的・目標とそれを達成した後に改めて設定される目的・目標の間に矛盾があってはならない』、従って、システム全体とシステムの部分において『長期の戦略的な目的・目標』と『短期の戦術的な目的・目標』の間に整合性が保たれなければならない』ということでした。

『私の組織運営哲学』― その9:『フィージビリティー』というものの見方・考え方

  第2の判断基準は『フィージビリティー』であります。

私たちは呼吸をして、食事をして、絶対に後戻りしない時間の中で生きています。これを私たちは『現実』(リアル)という言葉で表現しています。これに対して、『仮想』(バーチャル)という言葉が語られています。

『リアル』と『バーチャル』は何がどのように違うのか。『リアルの世界ではお金と時間が費消され、コストが発生する』のに対して『バーチャルの世界では、頭の中で空想するだけですからお金も時間も費消されない、したがって、コストが発生しない』ことだと私は考えています。

私たちは、仮想空間ではなく、この世に生きているのですから、『目先の目的とそこから生れる目標を達成する過程で発生するコストが補填されない限り、次の目的と目標に向かって行動を起こすことは不可能』です。コストが補填されないために、システムが動かなくなるからであります。人間の場合は、栄養補給が途絶えて、命が保てなくなります。

コストの補填は日々の生活の中で繰り返し起こっていることであります。ビジネスの場合はコストは売上から生じる付加価値によって補填されます。ビジネスではなく、日々の生活の中では付加価値は発生しませんから、給料や年金によってコストが補填されています。

『フィージビリティー』とはシステムを維持し、その目的を達成するために発生するコストが補填されるかどうかを確認することであります。

私たちはこのことをこのような言葉で表現しなくても日常生活の中で身体で覚えていますから、今更説明するまでもなく分っていただけると思います。ものごとに着手する時に『発生するコストを補填する目途があるか』というのがこの第2の判断基準であります。一言で言ってしまえば、関西の商人が毎朝の挨拶の時に言う『儲かりまっか』ということです。

『私の組織運営哲学』― その10:『アクセプタビリティー』というものの見方・考え方

 第3の判断基準は『アクセプタビリティー』であります。強いて漢字でその内容を置き換えると『損害許容性』ということであります。

私は太平洋戦争が終わった時に小学校3年生で、軍事教練と学徒動員を経験していない世代なのですが、10歳年長で特攻の最中におられた先輩から、『太平洋戦争において、日本も戦いをはじめるに当りスータビリティーとフィージビリティーという判断基準は持っていたのだが、この第3のアクセプタビリティーという判断基準を欠いていた。それ故に、アメリカがわが目を疑うような特攻や玉砕という軍事行動が行われた』と聞かされたことがあります。

命を落とすことより大きな損害はありません。第3の判断基準は『システム全体が命を落とような選択肢は不可』ということであり、この判断基準からは『玉砕という選択肢は出て来ない』ということであります。

発刊間もない頃の『夕刊フジ』だったと記憶していますが、レーガン大統領と共和党大統領候補を争い、レーガン大統領を後継して第41代大統領になったブッシュ大統領(今のブッシュ大統領のお父さん)が『日本軍の攻撃を受けて日本軍が占領している太平洋上の島の近辺で海中で彷徨っている時に、海中から潜水艦が浮上して救出した』という記事を読んだことがあります。潜水艦が人命救助のために浮上することは危険極まりないことで、『そんなことはあり得ない』と思っていた私は、1兵士の救助のために潜水艦が浮上して、人命を救出したという事実に、アメリカの戦争哲学、ことに戦場における人命に対する考え方にこんなに大きな違いがあるのかと驚いた記憶があります。

〔閑話休題〕インターネットで『ブッシュ』『海軍』『救出』という3つのキーワードで検索。

    1944(昭和19)年9月2日 父島攻撃に参加
    TBM艦上攻撃機が対空砲火を受け、被弾、エンジン火災発生
    無線局へ爆弾投下後、島から数マイル離れたところでパラシュート降下
    同乗の2名(William White 中尉、John Delaney 2等無線士)はパラシュートが開かず戦死
    4時間の漂流の後(この間戦闘機による上空援護を受ける)、潜水艦「フィンバック」(USS
    Finbak SS-230)に救助される

本題に戻って、『損害の許容性』という第3の判断基準洋をどのように理解するか、私は、差し当たり、『再起可能な力まで失われてしまう前に戦略・戦術を見直して、生き延びる道を求める』ということだと考えています。

『生命の継承が生きるものすべての生きる目的』と考えると、戦略・戦術の見直しは、少なくとも複数のアダムと複数のイブだけが残される段階で決断されなければならないことをこの第3の判断基準は意味しています。

ビジネスの世界でも『フィージビリティースタディー』が行われます。この場合、プラス要因とマイナス要因の差がプラスかマイナスかはしっかりと議論されますが、アクセプタビリティーという第3の判断基準は、全体に対する損害の比率を判断基準のひとつに加えていると言ってよいでしょう。

〔1000−900=100〕と〔10000−9900=100〕を比べると、同じ100の利益を得るために、前者においては900の損失、その損失率は90%であるのに対して、後者においては9900の損失、その損失率は99%であるということであります。前者においては将来への味方の行動能力が温存され得るのに対して、後者において味方はほぼ全滅しているのであります。

『なか締めのためのエピローグ』― その1:『松下に学んだ金銭哲学』

ここまででどうしても書き留めておかなければならない事柄は書き終わりましたが、以下に『エピローグ』(幕引き)風に4つの事柄を書きとどめておきたいと思います。

 私が勤務した東レという会社は『三井物産という会社が創った会社』で、このことが自由・闊達な会社の風土=ものの見方・考え方=コーポレートカルチャーの特徴となっていました。創業者の胸像は確かにありましたが、その胸像はオーナー創業者の姿ではありませんでした。

そんな会社で本社スタッフを勤めていた私が松下グループの経理マンと話した時に、『松下ではどんなに小さな金額でも、金銭伝票はすべて社長が承認印を押している。金銭出納伝票にはすべての会社の動きが投影されているからである』という話を聞きました。この時、『これは真理だ』と直観しました。これは大変なことですが、社長たる人は実行してよいことだと思っています。

『なか締めのためのエピローグ』― その2:『付け届け哲学』

 私は企画・調査畑を中心に本社スタッフの仕事をして来ましたから、営業の感覚のお付き合いがほとんどありませんでしたが、同期の仲間から、『付け届けを頂いた時に、ポケットマネーからお返しが出来る範囲なら受取る、それが出来ない範囲なら送り返す』という基本的考え方(これを私は『哲学』と表現しています)を教えられたことがあります。これも正解だと私の心の鏡は呟いています。民主党の岡田副代表は『どんな小さな付け届けでもすべて送り返す堅物』とマスコミで報道されたことがありましたが、私の目には『堅物すぎる』と映ります。人情には『機微がある』からです。

『なか締めのためのエピローグ』― その3:『相場』

私が勤務した会社には石油化学プラントがあり、触媒に白金を使っていました。ある時、担当常務に呼ばれて『白金の相場をチェックし、どのタイミングで買うべきか、意見を述べよ』と下命されました。

今のようにインターネットの検索機能がなかった当時ですから、ニューヨークの白金相場を調べるのは大変なことでしたが『その時に白金相場を決める変数は山ほどあるが、式の数は1つしかない。変数がXとYの2つで、式の数が2つという2元連立1次方程式を解くのとはわけが違う。『安いときに向う数年分の白金を買っておく』といった『投機買いは不可』である。白金の取引が会社の屋台骨を支えているわけではないので、必要な数量だけそのときの価格で買う『当用買いが正解』であると報告したことがあります。

和菓子に使うあんこの原料である小豆、豆腐や味噌醤油に使う大豆、あるいは、和菓子やパンの原料である小麦は相場商品ですが、このような『主原料の場合でさえ投機は不可』と私は思っています。『相場は商品の調達手段として割り切る』というのが私の考えです。原料が途絶えたら生産活動はたちどころにストップしてしまうからです。

それでは相場は何のためにあるのか、それは『価格の水準が安すぎる・あるいは高すぎると考える人物が自己責任で行うスペキュレーションのためにある』というのが私の考えです。

相場商品はかつては収穫が天候に左右される農産物というのが常識でしたが、現在は原油や通貨まで相場で取引され、投機の対象となっています。ドル相場はニューヨークの金融相場の中ではなく、シカゴの商品相場の中で取引がはじまったことは大変大きな意味がありましたが、このことは寄稿再開後に改めて論議することにいたします。

『なか締めのためのエピローグ』― その4:『ビジネスは闘争の合理化』

 人間社会を含めて自然界では闘争が行われます。古典的かつ典型的な闘争は命を賭けて行われました。武田信玄の時代には勝者が敗者の直系の男子を皆殺しにしましたが、近代市民社会では生命を勝敗の代償とすることは否定されています。この流れを私は『闘争の合理化』が進んできているという観点として学んで来ています。

このことはスポーツやゲームの場合を考えて頂くと分り易いと思います。スポーツやゲームにはルールがあり、その中に判定尺度が決められ、勝敗がきまりますが、ルールに従って勝敗が決まった後は、敗者は勝者を賞賛し、あらためて勝負を挑みます。

ビジネスの場合はどうでしょうか。世間的な理解では、ビジネスには競争相手がいて、懸命に売り込みを競いますが、その勝敗は『自分が売り込みに成功したか、競争相手が売り込みに成功したか』によって決まると考えられています。その場合、もう少し深く考えると『コストを補填できる価格で売り込みに成功したか否か』によって決まると考えられるでしょう。儲かったか損をしたか、要するに、金額が判定の尺度になっています(私はここで『世間的な理解では』と記しています。その理由は、ビジネスで大将から1兵卒まで打って出て一丸となって立ち向かっている相手を敵と考えると、戦う相手は『お客様』であって、『その勝敗はコストを補填できる価格で売り込みに成功したか否かによって判定される』と考えているからであります)。

人間社会で勝ち負けを競う事柄は枚挙に暇がありませんが、勝敗が命で償われるケースは法治の世界ではなくなっています。その意味で、合理化が進んでいると言ってよいでしょう。(完)


2008−9−15   谷口ウエノハラ研究室  谷口 文朗TN





第59講

私のビジネス ディシプリン論−その6


『私の組織運営哲学』― その1:『システムズ アプローチ』

 何人も、何ごとも時間の進行から逃れることは出来ません。この流れの中で、時間は刻一刻と、情け容赦なく進行し、現在が過去へ、未来が現在へと移り変わっています。従って、ものごとを動かす、例えば、会社やグループ、あるいは、自分自身を動かす時に、現在の状況がどのような過去から生れてきているか、どのような未来に向き合おうとしているかを抜きにして考えることは出来ません。

 まず最初に必要なことは、現在の会社やグループ、あるいは、自分自身がどのような過去から生れてきたか、その結果、会社やグループ、あるいは、自分自身がどのように成り立っているか、どのような仕組み(システム=構造)になっているかをしっかりと掌握することだと私は考えています。その場合『システムズ アプローチ』、すなわち、システムというものの見方・考え方に立ってものごとの成り立ちを理解することが必要です。具体的にいえば、@全体像(トータルシステム)を明らかにする、次いで、A全体を構成する部分(サブシステム)を明らかにする、B全体と部分、部分と部分の繋がり方を明らかにするという手順です(部分はさらに小さな部分に分けられます)。このことはメガネや人体を例にして考えて頂くと分りやすいと思います。

『私の組織運営哲学』― その2:『現状と望ましい状況とのギャップを明らかにする』

 会社やグループ、あるいは、自分自身の現時点における成り立ちが掌握できたら、その次に必要なことは、組織あるいは自分自身の目的(WHY)に照らして、どのような状態になるのが望ましいのか、こうありたいと思う会社やグループ、あるいは、自分自身の目標(WHAT)を描くことが必要です。

日米通算3000本安打を達成したイチロー選手の場合、3001安打、その次は3002安打という小さな積み上げが目先の目標になりますが、その先は4000本安打、さらにもっと先には大リーグ記録の更新という『理想像』が描かれているに違いありません。

私たち凡人のレベルでは、理想像は得てして『絵に描いた餅』に終わりがちですが、理想像に到達する手順として、短期(目先から半年・1年)・中期(1年から3年)・長期(3年以上)という3段階に分けて具体的手順を描き、強い意志をもって理想像を保持することが必要です。この時、実現しようとする事柄に対する意欲を『確からしさという数値』で客観化して示しておくことが必要です。この数値は、当然のことながら、短期ほど大きく、長期ほど小さくなりますが、時間の経過に伴って長期が中期に、中期が短期に変化しますので、その際に『意欲を示す確からしさという数値』を見直すことが必要になります(この計画方式は『ローリング プランニング』と言われます)。

『私の組織運営哲学』― その3:『目的と目標の体系』というものの見方・考え方

ここで大切なことは、目先の目的とそこから生れる目標とそれを達成した後に改めて設定される目的と目標の間に矛盾があってはならないことです。従って、全体の『長期の戦略的な目的・目標』と部分の『短期の戦術的な目的・目標』の間に整合性が保たれなければなりません。1942に初版が作成されたアメリカ海軍大学の『健全な意思決定』(初版)はスータビリティー(適合性)という表現でこのことの重要性を説明しています。

『私の組織運営哲学』― その4:『投入可能資源』と『理想像』の綱引き

 当然のことながら、描かれた理想像は実現可能でなければなりませんが、ここで『投入可能な資源』(人・もの・金・時間)は限られていますから、利用可能な範囲の資源で達成可能なレベルの目的と目標を描くことが求められます。この場合『ものと金と時間』は共通の尺度で測定される数値で示されますが、『人』については『やる気』という測定が困難な要素が入りますから、頭数を揃えるだけでなく、教育・訓練という要素を入れて判断することが求められます。

『ありのままの現実』を直線の左端のゼロ点に、『望ましい状況』を右端の10点に位置づけて、具体的にどの位置に目標を設定するか、それはリーダーの資質次第といってよいでしょう。

『私の組織運営哲学』― その5:『資源を調達・給付するのは業務命令を出す上司』

 何ごとにつけて、ものごとを実現するには『人・もの・金・時間』すなわち『投入可能な資源』がなければなりません。『資源を用意するのは誰か』がここでの問題点であります。結論をいうと、『人・もの・金・時間を用意するのは業務命令を出す上司』ということであります。『これだけの資源を用意するからこれだけの仕事をせよ』という命令を出すのが上司ということであります。

 『健全な意思決定』は『軍に命令を出すのは 政治=大統領で、命令の妥当性は政治の専管事項として大統領が熟慮の上決定しているので、命令を粛々と実行するのが軍の役割』と説いています。このことは、『シビリアンコントロール、すなわち、軍は政治に容喙してはならない』ことを言っているわけですが、このテキストは同時に『命令を実行する時に必要とされる資源は政治が準備するのが当然』という立場に立っています。『命令実行に必要な資源を軍が適宜現地調達する』という考えではありません。湾岸戦争でクエートに出動したアメリカ軍は、必要な石油を中東産油国からは調達しなかったし、現在も同盟国である日本からインド洋上で海上給油を受けています。ここのところがアメリカのアメリカたる所以で、かつての日本の軍とは異なっていたところと私は承知しています。

『私の組織運営哲学』― その6:『ワンマン・ワンボス』

 人は何もかもすべてを自分ひとりで取り仕切ることは出来ません。分業(英語では、労働の分割=ディビジョン オブ レーバー)が必要になる所以ですが、分業体制が効率よく機能するには『上司は1人』(ワンマン ワン ボス)が大原則になります。2人の上司から相異なる命令が出されるならば、命令を受けた本人は困ってしまいます。心臓が『開け』という命令と『閉じよ』という命令を同時に受けたら、心臓は止まって、人は死に直面します。 

『私の組織運営哲学』― その7:『ワンマン・ワンボスの2つの例外』

 『ワンマン ワン ボス』は大原則です。『例外のないルールはない』という英語の諺がありますが、『ワンマン ワン ボス』の大原則にも例外があります。第1の例外は『普段その場にいるはずの直属部下が不在の場合、上司(部長)は直属部下(課長)の直属部下、すなわち、自分から見ると2ランク下の係長に命令を出す』という例外です。ただし、部長は直属部下の課長と連絡が取れる状態が回復したら、部長の側から直ちに『係長に命令を出したことを部長から課長に報告しなければならない』ということです。

第2の例外は『普段連絡がとれるはずの直属上司が不在の場合、部下は直属上司がいたならばどのように判断し、行動するかを日頃の人間関係の中で知り得ているすべての情報を総合して判断し、行動しなければならない』という例外です。ただし、部下である係長は直属上司の課長と連絡が取れる状態が回復したら、直ちに『課長と連絡が取れなかった時に止むを得ず自分がとった行動を課長に報告しなければならない』ということです。

第2の例外は文字通り『独りで決めて、専ら行う』という意味の『独断専行』そのものであります。私は『直属上司と連絡が取れなかった時に止むを得ず自分がとった行動を上司に報告する』ことを完全に実行することを条件に『独断専行』は勇気を出して実行しなければならないと考えています。

独断専行をせずに、優柔不断のまま徒に時が経過し、自分とその部下が不利あるいは危険な状態に落ち込んで行くことを防がなければならないからであります。『直属上司がいたならばどのように判断し、行動するか』を日頃の人間関係の中で『カンニング』ではなく、『cunning』しておくことは極めて大切なことであります。

ここで日本語で言う『カンニング』は英語では『チーティング』であります(cheating:act in a wrong or dishonest way to get some advantage : 得するために行う不正行為)。座右の銘としているI.S.E.D.という英英辞典で『cunning』は『clever at deceiving people ; showing cleverness of this kind : 機知を用いてひとを惑わす』と説明されています。『cunning』は『これは合法、これは非合法という判断が未だついていない状況やものごと、あるいは、勝つか負けるかのぎりぎりの鬩ぎあいの中で、とっさの知恵で窮地を切り抜ける賢さ』を意味していると私は考えています。ですから『カンニング』は不可、『cunning』は生きるための知恵として大いに認められてよいということであります(閑話休題)。

上司がどのようにものごとを判断し、どのように行動するか、部下の立場で例を示して答えを求めることは出来ませんので、お酒の席を含めて、上司の日頃の一挙一動を観察し、時には『cunning』してでも答えを引き出して置くことが必要と思う次第です。

『私の組織運営哲学』― その8:『権限は委譲可・責任は委譲不可』

 上司は何もかもすべてを自分ひとりで取り仕切ることは出来ませんので、仕事を部下に委ねざるを得ません。委ね・委ねられる仕事の範囲は、ほとんどがHOWの分野の仕事になりますが、部下はどんなに委ねられる仕事の範囲が狭くても、自分で判断し、自分で行動する権限(法的な立場)を与えられなければ委ねられた仕事を進めることは出来ません。しかしながら、部下の行動の結果が思わしくなく、責任を問わねばならないような結果が出たとしても、上司は責任から逃れることは出来ないということであります。

 最近続発している食品偽装事件で最高責任者の社長が逮捕されているので、この点はいまさら確認するまでもないことですが、責任を部下に転嫁しようとした社長がいたこともまた事実であります。

2008−7−27   谷口ウエノハラ研究室  谷口 文朗TN





第58講 私のビジネス ディシプリン論−その5


『私の経営管理哲学』― その1:『経営はシステムである』

 私が上野原インフォメーションのポータルサイトに「上野原の市民は何を目指すべきか」について寄稿をはじめたのは昨年4月でした。その第2回に『システム』というものの見方・考え方について記しています。その要点を再掲します。

@  システムは多くの部分から成り立っている、
A  システムを形作っている部分の中に一番重要な部分とそれに比べると重要さが低いがなお重要な多くの部分がある
B  それらの部分は全体の目的を達成するために一斉に与えられた役割を果たしている。

 この説明は一般的ですから、メガネを例にとって具体的に説明しますと、@メガネはレンズ・フレーム・ツル・ネジで構成されている、A一番重要な部分はレンズであり、レンズに比べると重要度は低いがなお大変重要な部分としてフレーム・ツル・ネジがある、B全体を構成する部分は『視力の調整』というメガネの目的を達成するためにネジ1本に至るまで片時も休むことなく与えられた役割を果たしている(小さなネジがひとつ外れたらメガネは用をなさなくなる!)ということになります。大切なことは『目的達成のために、その構成要素が片時も休むことなく与えられた役割を果たしている』ということです。

今回は経営もシステムであることを説明するわけですから、メガネの例に倣うと次のようになります。

@  経営は〔@〕経営者と〔A〕生産・販売というライン部門と〔B〕財務・経理・人事・総務などのスタッフ部門で構成されている、
A  一番重要な部分は経営者であり、経営者に比べると重要度は低いがなお大変重要な部分として、ライン部門の部・課・係とスタッフ部門の部・課・係がある、
B  会社は『付加価値を生み出して、会社とのかかわりの中で生計を維持している関係者にその成果を配分して、会社の存続を図る』という目的を達成するために、ラインの生産・販売の第1線の担当者からスタッフの経理計算や人事労務の担当者に至るまで、片時も休むことなく与えられた役割を果たしている

   ということになります。

『私の経営管理哲学』― その2:『目的と目標を絶えず確認する』

システムが目的とその到達目標を見失いますと全体と部分の結合が失われ、システムは役割を果たせなくなり、烏合の衆の集まりになってしまいます。大切なことは『目的達成のために、その構成要素が片時も休むことなく与えられた役割を果たしている』ということです。ですから私は経営管理の基本的考え方の第1番目に『会社・部門・部・課・係それぞれに応じた目的と目標の絶えざる確認』を挙げたいと思います。目的と目標の違いは『目的はWHY』、『目標はWHAT』であります。

周辺の情勢が安定している時は目的の設定と目標の確認は1年ないし半年ごとに行われる予算編成による『プラン・ドゥー・チェック』を行えば十分でしょうが、今のようにガソリン価格が上昇し続け、車に乗らないわけには行かないけれども給料が上がるわけではないので、何かを節約しなければならないというような流動的な経済状況の下では、3ヵ月ないし毎月、会社・部門・部・課・係の目的と目標を『プラン・ドゥー・チェック』することが求められます。

会社では、通常の場合、会社全体の目的と目標とこれをそれぞれの会社・部門・部・課・係にブレークダウンした目的と目標の設定が『予算の設定と予算に対する実績のチェック』という手順で行われています。

『私の経営管理哲学』― その3:『目的と目標の設定手順は横一列』

 経営管理の基本的考え方の第2番目に、私は『横一列方式による目的と目標の設定の仕方』を挙げたいと考えます。

ものごとを決める時に『トップダウン』と『ボトムアップ』という2つの手順があります。『トップダウンは上司からの命令によってことが運ばれる場合』と考えると分りやすいでしょう。これに対して『ボトムアップは部下からの提案によってことが運ばれる場合』と考えると分りやすいでしょう。社長・部門・部・課・係という経営の組織は『ワンマン・ワンボス』という組織の基本原則によって運営されますから、トップダウンによって命令が伝達される場合は、社長・部門・部・課・係という順番に、あるいは、ボトムアップによって提案が行われる場合には、係・課・部・部門・社長という順番にものごとが取り計らわれることになりますが、私は、『目的と目標を設定する場合は、ワンマン・ワンボスの原則に従うことなく、横一列のフラットオーガニゼーション方式に従う』のがよいと考えています。『フラットオーガニゼーション』とは責任者の配下にいるすべてのメンバーがワンマン・ワンボスの原則から開放され、リーダーの下に横一列に並んだ組織形態であります。

そうは言っても、社長の下に全従業員が横に並ぶことは出来ませんので、『社長の下に横一列で集まるのは部長まで』、『部長の下に横一列で集まるのは係長まで』、『係長の下には全員集合』と考えておけば相当大きな組織でも『フラットオーガニゼーションによる目的と目標の設定は可能』と考えています。組織が小さい場合は『社長の下に係長までが横一列で集まり』、『部長の下に全員が横一列で集まる』ことは十分可能でしょう。

『私の経営管理哲学』― その4:『モティベーションの原点は計画への参画』

 システムには、@時計などの機械システム、A人体などの生体システム、B会社や学校などの社会システム、C太陽系などの宇宙システムがあることを私は第3講で説明していますが、『社会システムは全体と部分とその繋ぎ目に人間が入っている』点が他のシステムに見られない特徴になっています。社会システム以外のシステムは部分と全体の繋がり方は決まっていますから、部分は当初に与えられた役割をあたかもその都度命令を受けているかのごとく黙々と果たしますが、社会システムは人間によって構成され、全体と部分の繋ぎ目に人間が入っていますから、『命令を納得づくで受け入れる』全体と部分の相互関係が必要です。この『命令を納得づくで受け入れる動機づけ』(モティベーション)が必須になります。

私は、人間が納得する場合に、@恐怖に由来する納得、A契約に基づく納得、B参加によって生まれるによる自己実現に託した納得という3つのレベルがあると思っています。人それぞれがこの3つのレベルのどの位置にあるかは、時代背景により、また、人々それぞれの立場により様々だと思っていますが、私は、生きるのが精一杯であった時代から生活が豊かになってくるにつれて、@からAへ、AからBへと移り変わってきており、豊かな時代を生きている若い人ほどこの傾向は強いと思っています。この考え方はマズローの『欲求段階説』で説明されている人間の本性に逆らわない素直な考え方であると私は考えています。

 閑話休題:マズローの欲求段階説(インターネット『ウィキペディア』より) 
マズローは人間の基本的欲求を @生理的欲求、A安全の欲求、B親和(所属愛)の欲求、C自我(自尊)の欲求、D自己実現の欲求の5段階に分類した。このことから「階層説」とも呼ばれる。また、「生理的欲求」から「自我(自尊)の欲求」までの4階層に動機付けられた欲求を「欠乏欲求」とし、「自己実現の欲求」に動機付けられたを「成長欲求」としている。

『命令を納得づくで受け入れる動機づけ』が、@の失業の恐怖やAの契約に基づく場合『給料やボーナス』など金銭面のインセンティブが有効になりますが、豊かな時代で、マズローのいう高次元の欲求を持つ人々に対して『計画への参画』が動機づけとなるというのが私の考え方であります。

『火事場の馬鹿力』という言葉があります。人は信じられないような力の持ち主であることをこの表現は物語っていると私は考えていますが、『計画への参画』はこのような力を引き出す切っ掛けになるというのが私の考えです。私は民間企業に30年余勤務した後大学で15年勤務しましたが、民間企業での最後の『経営研究所の立ち上げと新設大学の学科運営の経験』を通して『計画への参画が最大のモティベーションである』ことを確信しています。

『私の経営管理哲学』― その5:『マネジメント バイ オブジェクティブ』

(注:『マネジメント バイ オブジェクティブ』は『目的による管理』ではなくて『目標による管理』と説明されていますが、『オブジェクティブ』は『WHY=目的』より『WHAT=目標』というニュアンスの言葉であるにも拘らず、I.S.E.D.という英英辞典の728 ページに『object=purposeに関すること』と説明されていますので、私は『Management by Objective』という表現を使用します)

『経営管理』という場合まず思いつくのは『予算で示される数字の達成度のチェック』ということになりますが、まず、『経営管理の原点は目的の確認である』というのが私の考えです。今年になって『偽・・・』問題が続出し、疑心暗鬼の世相が出ていますが、経営の目的を文章にしてこれを確認する手順が日常化されている場合、会社の利益は『未知の領域に踏み込んで、合法と非合法の分水嶺となる狭い尾根筋を進みながら行われるトレード(買売)から生まれる』という厳しい競争社会の現実の中で、『嘘をついてまで儲ける』ことへの歯止めとなることは疑いがありません。このシリーズの第41講で記しました通り、平成18年4月から『公益通報者保護法』が実施されていることも『偽・・・』問題が次々に明るみに出てきている背景ですが、数字より先の問題として、まず『目的』について確認し、その後に、『目標=数字』を確認する手順が必要です。

『私の経営哲学』― その6:『プラスを生むのはライン、管理はマイナスを減らす!』

 経営の根本目的は付加価値を生み出すことです。付加価値を生み出す活動と管理の関係についての私の考え方を次に説明します。その根本はプラスには2種類のプラスがある。第1のプラスは〔1+1=2〕という場合の『プラスのプラス』です。第2のプラスは〔+1−(−1)=2〕という場合のプラスで『マイナスのマイナスというプラス』であります。

 生産・販売というライン活動は原材料から製品とサービスを作り出して、販売代金を受取る仕事ですから『プラスのプラスの付加価値』を生み出しています。これに対して経理や人事や総務などのスタッフワークはものを作って売る仕事ではなく、経営にとってはコストとなっています。しかしながら、取引先の資金繰りが悪化して売上代金が回収できなくなる危険を事前に察知して、不良債権の発生を未然に防ぐ場合、このスタッフ活動は『不良債権という経営にとって大きなマイナスを減らすという意味で大きなプラスを生み出す』というのが私の観点であります。

 『スタッフは限りなく少ないのが正解』、『スタッフがラインに対して赤鉛筆を逆さまに持ってチェックするのは本末転倒』というのが私の経営管理についての基本的考え方(哲学)であります。(つづく)


2008−7−13   谷口ウエノハラ研究室  谷口 文朗TN






第57講 私のビジネス ディシプリン論−その4


『私の品質とクレーム哲学』― その1:『判断基準を客観化する努力』

 私たちが日常生活の中で、パソコンのソフトを買う時、あるいは、自動車保険を付けたりクレジットカードを新しく作る時など、読めないほど小さな字で、@グッズ(商品)とサービスと情報の内容(以下『トレード(買売)の対象』)、A対価、B数量、C期限、D検収条件、E支払い条件、Fクレームとその処理など起こり得るあらゆる事態を想定した契約内容が詳細に書き記されています。私たちはその内容を十分理解した上で売買契約を締結し、トレード(『買売』)している筈なのですが、最初は契約の内容に留意しても、契約が繰返されるとつい習い性になって、契約内容を気にしなくなる傾向が出てきます。ここでは、トレード(買売)の対象について具体的な数字で示されてない品質とクレーム処理についての基本的考え方(哲学)を書き記します。

トレード(買売)の対象が約束した品質とスペック通り作られているかどうかの確認は怠ることは出来ません。チェック(検収)が必要です。この時、『私たちは人それぞれの立場に立って頭の中にある見方・考え方』(主観=サブジェクト)に基づいて判断し、チェックしますから、共通の基準(物差し)が必要とされます。この時に『主観の客観化』が必要になります。

『私の品質とクレーム哲学』― その2:『客観化は測定にはじまる』

そのために、頭の中にある見方・考え方を『具体的な形で表現』すること(主観の客観化=物体による表現)が必要になります。その場合『長さ・重さ・大きさ・硬さ・速さなどの尺度とその数字』が用いられます(品質管理について述べている経営工学の教科書では部品の『電気抵抗値』が例として示されています)。

ものづくりに必要なのは当然のことながら生産設備ということになりますが『測定に必要な設備器機は生産設備とともに必須だ』というのがこの立場から生まれる結論のひとつです。

『私の品質とクレーム哲学』― その3:『感性の領域の事柄を数値化する努力』

私たちは日常生活の中で『色は論理ではなく感性あるいは感覚の問題だから、数値化することは出来ない』と、ともすれば考えがちですが『色は優れて論理の問題』であります。『波長』という観点から数値化できるからであります。

縦軸に虹の順番に『赤・橙・黄・緑・青・藍・紫』の7色を並べ、横軸に『真っ白から真っ黒』の2色を10段階に分けて並べると、そこに出来る升目の数は無地を含めて80になり、80の色が出来上がります。例えば赤と橙の間に10段階の色の区分を設けると、升目すなわち色の数は無地を含めてたちまち710色になります。

色の数値化は『頭の中では波長の測定によって可能』ですが、具体性に欠けますから、私たちは印刷物の色を決める時に『色見本』に付された番号によって色を決めて行きます。波長より色見本の方が共通の認識を得やすいからであります。色は印刷される紙によって色調が微妙に変化しますから、最終的には『色校正』という手順が必要とされます。ここで色見本と印刷する用紙の差から生まれる微妙な色調の差が補正されます(織物になると生地の要素が加わるので色調の調整はもっと複雑になります)。

 ワインの場合、理屈ではその品質を数値化することも可能なのでしょうが、私たちはデータより雰囲気を大切にして、『ソムリエ』と言われるその道の権威者の判断に品質の良し悪しを委ね、数値はせいぜいアルコールの度数程度しか見ていません。

『私の品質とクレーム哲学』― その4:抜取検査の必須条件は『こころの鏡』

 品質を数値で確認する場合、生産される何千・何万もの製品の品質を1つ1つ測定する『全数検査』は不可能です。最近アメリカ産牛肉の品質検査で、日本が全数検査を求めたのに対し、アメリカは抜取検査で十分という見解の相違が話題になりました。理論的にはアメリカの言い分が正しいのですが、それには『定められた基準』をしっかりと守る『曇っていない心の鏡の存在』が条件になっています。

品質管理のテキストでは、抜取検査のサンプルの測定値が『UCL』(アッパー コントロール リミット:上限)と『LCL』(ロウワー コントロール リミット:下限)の範囲に入るときは合格、入らないときは『不合格=不良』と説明されています。『定められた基準がしっかりと守られないという本当のような嘘の話』がもし発生するとしたら、会社全体信用に関わる大事件が発生し、会社の上層部が納品先に出向いて対応を迫られることになります。

ある日の検査工程で『朝一番にチェックしたサンプルになぜか不良が多い。そんな筈はないというので、不良の多いサンプルをもとに戻して、操業が安定して不良の出なくなったサンプルのデータをとって午前中の製品が合格とされ、不良品が出荷されてしまう』というのが私の言う『本当のような嘘の話』ですが、このことは『与えられた規準に照らしてよいものはよい、悪いものは悪いと判断する1点の曇りもない心の鏡を品質管理に携わる第1線の作業担当者がしっかりと持たねばならない』ことを物語っています(初期のIC生産工場で『週明け月曜日の朝一番の製品に不良が多い。週末に新しい化粧品のセールスが会社の寮に来た。生産ラインの女子従業員が使った新しい化粧品の鉛成分がクリーンルームの中で生産されるICに付着して、朝一番に不良が多発した』という話を私は工場見学に際に聞いています。閑話休題)。

『私の品質とクレーム哲学』― その5:『2種類の誤謬』

 ここで『人間が冒す過ちに2種類あること』について記しておきましょう。その1つは『正しいことを誤りと判断する誤謬』です。今ひとつは『誤っていることを正しいと判断する誤謬』です。いずれも誤謬であることには違いはなく、誤って判断された人は大変な迷惑を受けることになりますが、その影響力がものすごく違うことをしっかりと心に刻み込んでおかなければなりません。『誤っていることを正しいと判断する誤謬』は2重・3重にチェックを行なって何が何でも食い止めなければならないというのが私の考えです。先の『本当のような嘘の話』も『誤っていることを正しいと判断する誤謬』の1例ですが、将来起こり得ることとして『鳥インフルエンザの感染者を健常者と判断する誤謬』が発生した時の恐ろしさを考えればお分かりいただけると思っています。

『私の品質とクレーム哲学』― その6:『品質管理と弓の的』

狙いとする品質を実現する活動は『弓を射て、的に当てる活動』と考えてよいでしょう。弓の的に中心点から外周に向けて何層もの円が描かれています。4人にそれぞれ100本の矢を射てもらいました。その結果は次の通りでした。

Aさん:100本の弓は見事に中心とその周辺に命中

Bさん:100本の弓は中心ほど多いが、多く外周にかけて平均的に減少して命中

Cさん:100本の弓は的の右上の外周に近い部分に集中して命中

Dさん:100本の弓の20本は的外れ、残り80本は的の範囲内に不規則に命中

4人の結果を品質管理の観点から評価すると、Aさんは合格、Dさんは不合格になりますが、BさんとCさんはどのように評価されるでしょうか。Cさんはどこかに癖があって、結果として中心への命中数が少ないのですが、その癖を修正すればAさんと同じ評価になります。一方、Bさんは的に万遍に当たっていますが、中心部分への命中率が向上するような差し当たりの改善策はありません。

的の中心を水平方向に通る線を横軸に見たてて、横軸の位置に突き刺さっている矢の数を縦軸にとって、グラフを描くと、AさんとBさんについては正規分布のグラフが描けることになります。このグラフから、品質管理の基本中の基本である3σ(スリーシグマ)の考え方と『UCL』と『LCL』を設定する意味とその方法が説明されるのですが、ここでは触れずに先を急ぎます。

『私の品質とクレーム哲学』― その7:プロセスが品質を証明する

破壊検査と非破壊検査も品質管理について書きとどめておきたいポイントです。それは出来上がったトレード(買売)の対象を破壊して内容をチェックしたり、出来上がったトレード(買売)の対象を『リバース エンジニアリング』分解して内容をチェックできない場合、品質はどのようにしてチェックされるのかということです(組み立てられた製品のネジを1つずつ逆順をたどって分解して行くことを『リバース エンジニアリング』といます。閑話休題)。

破壊検査が出来ないトレード(買売)の対象の品質は『定められた生産工程の手順をその通り実行することによって保証される』ということなのです。私はこの考え方を航空機の部材の生産工程で学びましたが、この考え方は『無農薬野菜』についても当てはまると考えています。

私は第8WEB研究室第53講で、談合坂サービスエリアの野菜村にもっと多くの人々が参加し、付加価値を生み出す活動が活発になることの意味合いを記した後、第9WEB研究室で『ビジネスについての考え方』を書きつづけています。その理由は、出品される野菜の品質についての評価をしっかりと保ち、今日まで築き上げてきた信用を保ちつつより大きな付加価値を生み出して行くために『参加される農家が野菜づくりの手順をしっかりと確認して、自分の心の鏡に照らして、定められている手順を守って野菜の品質を保ちつづけて行くことを念じて止まない立場』からであります。

『私の品質とクレーム哲学』― その8:クレームは関係改善の第1歩

 社会へ出て間もない頃、レーヨンという相場商品の生産を目的として設立され、時代の技術革新の最先端に立って合成繊維を商社経由で販売していた素材メーカーにいた私は『クレームを受けることはよくないこと』と単純に考えてきましたが、住宅産業の仲間から『クレームを受けることは顧客との関係を改善する第1歩であって、恐れることではない。ただし、朝クレームを受けたらその日の内に、夕方クレームを受けたら翌朝一番に、菓子折りを持ってお詫びに参上できる要員配置が行われていること』という考え方を教えられて、業界によって考え方の基本(これを私は哲学という漢字で表現しています)がこれほどまでに違うのだということを学びました。商社に売っている素材メーカが直接消費者に売る最終製品を売ることがどれほど困難な事柄であるかを身に沁みる思いで学んだことでありました。


2008−6−29   谷口ウエノハラ研究室  谷口 文朗TN





第56講 私のビジネス ディシプリン論−その3


『私の営業哲学』― その8:『付加価値が実現する時』

ビジネスにおいて『付加価値は売った代金を受取ってはじめて生まれる』ということになります。大抵の場合、営業マンは『契約を締結したら営業は完了、代金の受け取りは会計課あるいは財務課などスタッフの仕事』と考えて『次の契約締結に向けて動き出す』ということになりますが、付加価値を生み出すという企業活動において代金を受取るという活動は掛け算で繋がっている何段階もの営業活動の最後の活動であり、この活動が失敗に終われば、付加価値が実現するどころか、これまでのすべての努力が水泡に帰して、発生したすべての経費が赤字となって会社に残ることになります。『販売契約は営業活動の終わりの段階における通過点に過ぎない』ということなのです。

『私の営業哲学』― その9:『決済条件』の基本は『C.O.D.』

『販売代金を何時・どのように受取るか』は当然のことながら契約の重要な条件となりますが、その昔、何かの本で『海の部族と山の部族が海の幸と山の幸を交換する時、略奪されることを恐れて、武器を携えた屈強の若者が対峙する中で、部族を代表する長老が交換に臨んだ』と書かれていたのを読んだ記憶があります。私はこの取引形態の中に『物を引き渡すのと対価を受取るのは同時』というビジネスの原型があると考えています。

現代の私たちは『取引相手が暴力を用いて略奪することなどあり得ない』という前提でトレード(『買売』)に臨んでいますが、『知的暴力を用いた略奪』は今も起こっています。

販売代金を確実に受取る明快な方法は『C.O.D.』(キャッシュ オン デリバリー)すなわち『現金決済』で、私たちは毎日『C.O.D.』で『買売』しています。この方法は一番確かですが、便利さと安全性に問題が残る決済方法であります。

『私の営業哲学』― その10:『制度による信用保証』の活用

『便利さと安全性に問題が残る』という意味は、金額が大きくなったり、支払い相手が遠く離れていたり、金額は小さくても支払い回数が多かったりする場合があるからです。現実の世界では、代金の受け取りを商品を引き渡した後に行う多種多様な決済が行われています。そこに『売り手が買い手を信用する』という要素が入っています。

インターネットオークションでは、買い手が先に売り手に現金を送金した後に売り手が品物を発送するということになっていますが、この場合は『買い手が売り手を信用する』という要素が入っています。

いずれの場合も『信用から生まれる決済条件の変形』が起こっています。ここでは『売り手が買い手を信用する』という場合について『決済条件の変形』を考察します。

 近くの商店で毎日の買いものは『帳面につけておいて貰って、1か月分を纏めて現金で支払う』という場合はもっとも基本的な『現金決済の変形』で、売り手が買い手を無条件で信用して行われているもので、信用を裏付ける制度としての仕組みは全くありません。郵便振替用紙を同封して地場産品を送り届ける産地直送も売り手が買い手を無条件で信用してはじめて成り立つ取引です。

 私たちの身の回りで行われているのは『クレジットカード決済』も身近な取引です。この場合はカード会社が売り手に代金を支払い、その後にカード会社が買い手の貯金通帳から代金を取り立てるという形になっています。宅配業者によるコレクトサービスもカード会社の代わりに宅配業者が入っていますので、基本的仕組みはクレジットカード決済と変わるところはありません。この場合は『売り手と買い手の間に入る会社』が信用を裏付けている、従って、『信用を裏付ける制度としての仕組み』があると私は考えています。

 この観点を小切手と手形に当てはめると、『小切手には信用を裏付ける制度としての仕組みがあるが、手形には信用を裏付ける制度としての仕組みがない』と考えることができると私は思っています。

『私の営業哲学』― その11:『手形は日本ローカルスタンダード、小切手はグローバルスタンダード』

 私が企業の企画・調査畑のスタッフの仕事を通して気付いたことがあります。それは『日本では日常的に90日手形、場合によっては210日手形(台風手形)による決済が行われているが、欧米では1ヵ月後現金決済が当たり前』ということでした。

 なぜか、日本では企業の資金繰りが楽ではなかったということですが、日本は島国で他国との交流がなく、付けで売っても『とりはぐれのリスク』が小さく、その分信用の基盤があったということだと考えています。これに対して欧米では人の移動が頻繁で、今、売った瞬間に代金を受取っておかないと『買い手が明日はこの地にいる保証はない』という事情があったと思っています。

 私が社会に出て間もない頃、日本で『資本取引の自由化』が課題になりました。この時、OECD(国際経済協力機構)で『結婚持参金』が資本自由化の項目になっていました。王室の間で国際結婚が行われている欧州では『今この国に居て、この国の法律の適用を受けている個人や会社が明日他国の法律の適用を受ける個人や会社になっている可能性がないとは言えない、売った瞬間に代金を受取るのは当たり前』ということなのでしょう。

米国については、10年に一度『人口の重心』という統計が作成されています。アメリカは今も人々が西へ西へと移動しています。リーバイシュトラウスというジーパンメーカーは西へ西へと向かう西部開拓者相手にビジネスをはじめた会社ですが、『今日売った商品の代金を今日受取っておかないと、明日は買い手はこの地にいない』という事情があったに違いないと私は考えています。

事情はともあれ『販売代金を手形で受取るのがよいか小切手で受取るのがよいか』と問われれば、『小切手で受取るのがよいに決まっている』というのが私の考えです。にもかかわらず『日本には日本の事情があるので、一朝一夕には変えられない』という理由で、これだけグローバリゼーションが進んでいるのに日本の手形スタンダードが大きく変わる兆しは見えていません。

その理由は、『改革に意欲がない』ことに尽きると私は思っています。1973年と1980年に年9.00%にも達していた基準割引率および基準貸付利率(公定歩合)が2001年には0.10%まで低下し、その後上昇に転じているとはいえ、なお0.75%の低水準に留まっている現状は資金不足と言える状態ではないと私は考えています。手形決済を現金決済に変更することは、アメリカからのドルの流入によって生じている金融緩和現象がバブルの機運を醸成して土地やゴールドなどの価格を上昇させるのを食い止める役割を果たすことになると私は考えています。

『私の営業哲学』― その12:『買わない勇気・売らない勇気』

 『宅急便』の事業化に見事に成功された経過を書きとどめられた小倉さんは『小倉昌男経営学』の中で『本業に関するお客様の要望には無理なことでも対応しなければならないが、こと本業以外の事柄についての無理難題には決然と対応しなければならない』という主旨が述べられ、『三越との取引から撤収された経緯』を書き留められています。

こと本業に関する限り、売り手と買い手はお互いに相手を必要としていますから日頃から『独立不羈の魂を持ちながら自利・利他・円満』にこれ努めることが必要ということでしょうが、本業以外の部分で理不尽な要求が出される場合、あるいは、本業の部分において耐え難い理不尽な要求に直面した場合には『買わない勇気・売らない勇気』が必要とされる時があります。 

『私の営業哲学』― その13:『トヨタの敵は◆◆◆◆』

世間では『トヨタの敵は』と聞くと反射的に『ニッサン』という返答が返ってきますが、私は『@社長から担当者まで、打って一丸となって立ち向かっている相手はニッサンではなくてお客様であること、Aトヨタが代金を受取るのはお客様であって、ニッサンでない』ことをもって、『トヨタに敵はお客様』と考え、学生諸君に講義してきました。

『売り手と買い手はお互いを敵と思う真剣勝負をしている』というのが私の考えです。『お客様は神様であって、お客様を敵とは何ごとか』という反問がとっさに出てくると思いますが、世間から袋叩きにあっている吉兆の創業者は『お客さまを真剣勝負の敵と思え』という主旨の言葉を残しています。

このことはいずれこのWEB教室で紹介しようと考えている米国海軍大学(Naval War College)の『健全な意思決定』を読んで私が確信したことであります。(つづく)

 

2008−6−15   谷口ウエノハラ研究室  谷口 文朗TN






第55講 私のビジネス ディシプリン論−その2


『私の営業哲学』― その1:『営業』と『セールス』の違い

  ビジネスという時、まず、思い浮かべるのは『売って代金を受取る』という活動です。その意味でまず思い浮かぶのは『販売』すなわちセールスです。私たちは一方で『営業』という言葉も日常でよく使っています。販売も営業も『売って代金を受取る活動』ですから外見からはその違いを見分けることは出来ません。

しかしながら私はこの両者の活動の内容に根本的な違いがあると考えています。その違いは次の通りです。

『セールス』:バナナの叩き売りのように『すでに形になって出来あがっている製品やサービスを 売って、代金を受取る活動』

『営業』:お客様がこのような製品やサービスがあったらいいなと思っている製品やサービス、すなわち、『お客様の頭の中にだけ存在して、この世に未だ姿・形を現していない製品やサービスを形にして、お客様に 買い上げて頂いて 代金を受取る活動』

(注:私は、お客様の頭の中にある『アイディア=コンセプト』を会社の研究開発とものづくりの総力を挙げて形にする活動を『コンセプトエンジニアリング』という言葉で体系化しています。その一部を第2WEB研究室第6講で簡単に紹介しています)。

そうは言っても、現実の世界では、『お客様が自分の頭の中にだけ存在して、この世に未だ姿・形を現していないと考えている製品やサービス』がすでに世の中にすでに存在している場合、あるいは、世の中に存在している製品やサービスを組み合わせることによってお客様のニーズに対応できる場合がありますから、販売と営業の境界線は時と場合によってさまざまということになります。このような区別はお客様のニーズに対応する時の姿勢を決める上で大切であると私は考えています。

この区別を含めてこの第9WEB研究室で、私は自分の知識と経験に照らして間違いないと確信している事柄を『私のビジネスディシプリン論』として取り纏めたいと考えます。

『私の営業哲学』― その2:『セールスマン』も『営業マン』も会社を代理している

 現実の世界では『販売はセールスマンによって、営業は営業マンによって』行われます。何かを売って、あるいは、買ってもらって代金を受取る際に、重要なことはセールスマンあるいは営業マンが顧客に対してどのような立場に立っているかということです。

結論は『セールスマン』も『営業マン』も会社を代理しているということです。『会社を代理する』ということは、『セールスマンや営業マンが顧客に示した価格・数量・品質・納期などの取引条件は会社が示したのと同じ』ということです。『あれは●●が個人として勝手にやったことで・・・』という言い分は一切通用しないということです。このことは●●が新入社員である場合も変わりません。

それでは会社のどの範囲を代理していると考えるべきなのでしょうか。私はセールスマンの場合は、直接的には自分の属する課の課長−係長−主任という命令系統にいるラインの上司、間接的には会社の生産・販売関係部署と考えてよいと思っています。営業マンの場合は、自分の属する課の課長−係長−主任という命令系統と会社の生産・販売関係部署だけでなく研究・開発関係部署まで含まれると私は考えています。『会社の総力を挙げて』という表現はこのことを指しています。

『私の営業哲学』― その3:『営業マン』を英語でどのようにいえばよいか

 『セールスマン』はもともと英語ですからそれでよいとして、外国のお客様に話す時に『営業マン』を英語でどのように表現すればよいでしょうか。一般的には『ビジネスマン』と表現されていますが、私は『ソリューション エンジニア』というのが相応しいと考えています。

『ソリューション エンジニア』とは何か。先に書きましたように『お客様がこのような製品やサービスがあたらいいなと思っているそのニーズの解決策(ソリューション:答を見出す)を提案する活動』が営業活動の中味であり、ソリューションを見出す手順がエンジニアリングだからであります。

ここで再び私が座右の銘としているI.S.E.D.という英英辞典にその意味を求めましょう。この辞書は『エンジニアリングとは、機械・船舶・道路その他を造り上げて、コントロールする科学』と述べています。

この説明の中で『機械・船舶・道路その他』というところに『顧客のニーズ』という言葉を入れると『科学、すなわち、ものごとの因果関係に忠実に顧客のニーズを満足させる製品やサービスを創り出して、お客様に買い上げて頂いて代金を受取る活動』と考えればよいというわけであります。

『私の営業哲学』― その4:セールスと営業の活動の核心はお客様の意思決定を促すこと

 先に『製品やサービスを売って、あるいは、買ってもらって代金を受取る』点でセールスマンの活動と営業マンの活動は変わるところはないと書きしましたが、ここでは、『売る』とはどういうことかについて、私の考えを書きます。

『売る』ということは『買って頂く』ということであります。私は35年間会社に勤務しましたが、その間、営業や販売を経験していません。しかしながら、『売るということは買い手に命がけの飛躍を惹き起こすことだ』という東レの森 廣三郎 社長の一言を今も忘れていません(森 社長は三井物産のニューヨークで世界を相手に大きな取引をされた明治生まれのリーダーです)。私はこのことを『買い手が買うという意思決定をしたその時に、これを買ったためにあれが買えなくなった、これも買えなくなったという立場に立たせることになる、換言すれば、多くの願望を犠牲にすることを決心させることだ』と解釈しています。

売り手が『あれも買いたかった、これも買いたかったという犠牲にされた買い手の願望に対するシンパシーを表明すること』に心掛けることは大切なことと言えるでしょう(『シンパシー』は『同情』という漢字で説明されていますが、『上から下に向けた同情』ではなく『同じ目線にいるものの間で、相手の立場に立って考える』ということであります。閑話休題)。

『私の営業哲学』― その4:買い手の意思決定と売り手の意思決定の合致点

 経済学の一分野であるゲームの理論は、ビジネスをゲームととらえて『サドル ポイント』という概念を用いて買い手と売り手の意思決定の合致点をまさぐる行動を分析していますが、私は日常生活の中の『峠』という言葉を用いてこのことを説明しようと考えます。『馬の頭から尻尾の線が峠の東西方向、馬の胴体を輪切りにして手前から上って反対側に下りる線が峠の南北方向、サドルポイントが峠』と考えるわけです。

『峠』という言葉を使ってここでは買い手の意思決定と売り手の意思決定の合致点についての考えを述べます。

峠とは、南北方向に上り勾配を進んでいる人にとっては最も高い地点になります。一方、峠を東西方向に下っている人にとっては最も低い地点になります。ビジネスにおいて、売り手は『出来るだけよい値で売りたい』と考えて行動するが故に、峠を南北方向に移動しながら最も高く売れる買い手を捜している人と考えてよいでしょう。これに対して買い手は『出来るだけ安く買いたい』と考えて行動するが故に、峠を東西方向に移動しながら最も安く買える買い手を捜している人と考えてよいでしょう。

売り手の採算の思いを乗せた南北方向の峠のカーブの最高点と買い手の採算の思いを乗せた東西方向の峠のカーブの最低点が、丁々発止、機知を縦横に働かせた商談の中で合致する、これが商談成立の瞬間なのだと考えるわけです。オークションに限らず商談がまとまると『ダン!』(Done!)という合図が入るといわれています。

この瞬間の心理はどのようなものか。買い手の方は『欲しいものが手に入ったのでうれしい』という喜びの感覚が生まれるでしょう。しかし、同時に『もう少し安く買えていたらよかったのに』という感覚が生まれている筈であります。一方、売り手の側では『売りたいものが売れたのでうれしい』という喜びの感覚が生まれるでしょう。しかし、同時に『もう少し高く売れたらよかったのに』という感覚が生まれている筈であります。

ビジネスの中では、このように、売り手と買い手の間に『喜びの均衡』が生まれるのですが、同時に、売り手と買い手の間に『無念さの均衡』が生まれているということなのであります。

『私の営業哲学』― その5:『リピートオーダー獲得』が営業の真髄!
 
 ひとつの商談が成立して、次の商談が来るまでの間隔は商談の対象によって千差万別です。個人の場合、食べものや飲み物はリピートオーダーが来るまでの間隔は短いのですが、住宅となると一生に一回買うか買わないかという買い物ですから、リピートオーダーの可能性はごく小さいということになります。しかしながら会社の購買という立場で製品やサービスを買っている人の場合、とくに原材料を買う場合、リピートオーダーは日常的に発生するということになります。

私はMG(マネジメントゲーム)を用いた『ビジネスに対する考え方と姿勢』(ビジネスディシプリン)の授業において、『会社の損益計算書に現れるその期1期の会社の利益の最大を目指すのではなく、会社の自己資本の最大を目指すことが経営の目標である』と講義して来ましたが、このことを1人の営業マンの立場に置き換えた場合、『リピートオーダーの獲得』が経営の目標と合致するというのが私の考えであります。新しい取引が1回の商談で合意点に到達することは滅多にありません。何回かの商談でお互いが相手をまさぐりながら合意点に到達するのがビジネスの日常です。

『私の営業哲学』― その6:『売買』ではなく『買売』

私たちは日常生活の中で『取引は売買である』と考え、当然のこととして『売買』と書いています。このことは『売る』と『買う』の双方とも大切なのだけれども、どちらがより一層大切かと問われれば暗黙にうちに『売る方がより一層大切』ということを意味していると私は考えています。『大切な方が先に出てくる』のが自然の理だからであります。

私自身、日本の社会で生きる1個人として、暗黙にうちに『売る方がより一層大切』という潜在意識の中で生活していましたが、『取引=トレード』という言葉を座右の銘としているI.S.E.D.という英英辞典で確認した時、『バイイング アンド セリング』(買売)と説明されているのに気付いて、目から鱗が落ちる思いをしたことがあります。世界の人々は『暗黙のうちに買うことが売ることより大切』と考えていることに気付いたのです。

『買うことが売ることより大切』いうことを私は次の事実から立証できると考えています。それは『会社は製品の不買運動で潰れることはないが、原料供給が途絶えたら即座に潰れる』ということであります。私が上野原に新設された大学に着任して間もない頃のことでしたが、エンジンのある部品を製造している会社の現場に火災が起こったためにトヨタのすべての自動車生産ラインがストップするという事態が発生しました。これはミクロの視点ですが、マクロの視点でいえば、相手を制裁する手段として『その国の製品の不買運動ではなく不売運動が行われる』という現実を指摘できると考えています。日本もかつてABCDラインに取り囲まれて石油を買えなくなったことを夢忘れてはならないと私は思っています。

『リピートオーダー獲得が営業の真髄』という言葉に、リピートオーダーの商談のほとんどで新規の商談にかかる手間と暇を省けるというコスト計算上の理由だけではなく、『バイイング アンド セリングが買い手の基本的立場であることへの深い洞察』が含まれていることを私は含意させています。

『私の営業哲学』― その7:『プロダクトアウト』ではなく『マーケットイン』

プロダクトアウトとマーケットインという言葉はマーケティングの用語ですが、プロダクトアウトは売り手ができることに軸足を置いて顧客と向き合う姿勢です。これに対してマーケットインは買い手のニーズに軸足を置いて顧客と向き合う姿勢です。

マーケティングの論議の中で『シーズが先かニーズ先か』という議論がよく行われます。

いずれの議論もしばしば『鶏が先か卵が先か』という議論に置き換えられています。『鶏が先か卵が先か』という議論は大抵の場合『すぐに結論を得るのは困難』として結論の先送りで終わる場合がほとんどです。私も会社勤務の時代は結論先送りに組していましたが、大学で講義する立場になってからは『プロダクトアウトではなくマーケットイン』があるべき姿であるが故に『シーズ ではなく ニーズ が先』という考えに統一しました。

 

2008−6−1   谷口ウエノハラ研究室  谷口 文朗TN





第54講 私のビジネス ディシプリン論−その1


『上野原市の宝の山』で朝取り野菜の直販活動をビジネスにする

 私は夢を見ています。『談合坂 上り線 サービスエリアの上野原市の野菜農家の朝取り野菜が、ちょっと財布の紐を緩めた首都圏の人々に喜ばれて、高速道路からの帰り道に必ず立ち寄って買って頂く、それだけではなく、国道20号線で首都圏への帰途についている時は、国道20号線から帝京科学大学に向かう市道から談合坂上り線サービスエリアに来て頂いて、お目当ての朝取り新鮮野菜を買って帰って頂く』という夢です。私の目には中央高速道路談合坂上り線サービスエリアは『上野原の朝取り野菜をどんどん吸い上げて行く大噴水』と思えるのです。

 その夢は正夢になる条件があると思っています。その理由は次の通りです。

@ 談合坂上り線サービスエリアは『上野原市の宝の山』である。この宝の山には毎年500万人を越える人々が訪れている。この人々は財布の紐を少し緩めた気分で、首都圏の自宅に帰ってから必要となる食料品を買われる。私が上野原市の一般道路からサービスエリアに入って野菜村のテントを訪れた時、『ここで売られている卵は首都圏のシェフが太鼓判を押している卵です。この写真の黄味の盛り上がり具合を見て下さい。騙されたと思ってお買いになって見て下さい』と語りかけると、初老のご夫婦は1パック買い求められた。観光バスが到着するとレジに長い行列が出来ている。談合坂上り線サービスエリアは『上野原の朝取り野菜をどんどん吸い上げて行く大噴水』である。
A 上野原市の光ファイバー回線はこの『宝の山を掘り起こす道具』である。
B この宝の山から付加価値を掘り起こすのは『ビジネスによる生産活動』である。
C ビジネスによる生産活動は会社の専売特許ではない。私たち『個人が畑で野菜の種を蒔いて収穫することも立派なビジネスによる生産活動』である。
D この朝取り野菜の直販活動に地元の有志が取り掛かられてから数年の間に『年間1億円に迫る売上高』を実現している。出品農家が100軒なら1軒当たり年間100万円の売上になる。
E 地場野菜には、これまでの『無農薬新鮮野菜の地産地消』という意味合いに加えて、ガソリンを使って流通している流通野菜にはない『省エネ野菜』という意味合いを持つようになっている。
F この大マーケットへの『出品農家が増えることは上野原を豊かにする具体策』になり得る。
G 上野原市の光ファイバー計画はこの『朝取り野菜の直販ビジネス』に大いに役立つ。

光ファイバー計画はどのように役立つのか

 光ファイバー計画はこの『朝取り野菜の直販ビジネス』に大いに役立ちます。その理由は次の通りです。

@ 出品農家が上野原市の一番奥まった所にあっても、市の光ファイバーのおかげで電子メールができるので、電話やFAXより速く、正確に日常の業務連絡を行うことが出来る。グループ全体に同じ内容を連絡する場合、1つの電子メールで10人でも20人でもワンタッチで連絡できる。電話のように音声ではなく、文字だから相手が不在でも確実に連絡が出来る。文字連絡という点ではFAXも同じだが、送信の手間が全く違う。
A 緊急の連絡が必要な場合は、『黒い箱』(音声行政放送受信機:通称情報ターミナル=音声告知端末)の『市民と市民の間の連絡機能』を利用して、メンバー相互に連絡をとることが出来る。『黒い箱』はUBCから無料で貸与される。その音声を聞く場合、市からの連絡は無料で聞けるが、市民と市民の連絡の場合はUBCとの契約が必要で、加入者の人数に応じた利用料金が設定されている。その料金は代表者が纏めて支払う。
B インターネットの情報を利用できる。天気予報は、郵便番号の地域ごとの最新の天気予報を3時間ごとに表示している。雨雲の動き具合までも見ることが出来る。
C 出品野菜に貼り付けたバーコードで、出品者の番号と値段をレジが読み取った瞬間に、その日の自分の売上高が累計され、諸経費を差し引いたその日の収入がPCから読み取れる。
D 現時点では談合坂サービスエリアにたまたま立ち寄った人々が野菜を買い求めているが、光ファイバーによるコミュニケーションが利用されるようになった時には、リピートオーダーを受けることが可能になる。
E 私が野菜村を訪れた5月中旬時点で、登録メンバーは約130人、その出品物は野菜など31種類、草花など約20種類のほか大クワガタ、竹編み背負い籠などであった。多様な出品物の売上を出品者ごとに、正確かつその日のうちに取り纏めることは容易でない。5月20日午後の出品物は次の通りであった。

野菜類:大根・キャベツ・キタヒカリなどジャガイモ3種類・新たまねぎ・辛味大根・エシャロット・サヤエンドウ・葉っぱ人参・ハーブミックス・サニーレタス・レタス・サラダホレンソー・ラディッシュ・マスタードレッド・マスタードグリーン・ルッコラ・かぶら・葉っぱ大根・小かぶら・山東菜・ワサビ菜・にら・春菊・わらび・うど・ふき・タケノコ・小梅・金太郎マクア瓜

草花類:ゼラニウム・ベゴニア・フクシア・メリーベール・カリブラコア・苗なすび・苗トウガラシ・岩松・岩松盆栽など

私の夢の実現に不可欠の『ビジネス ディシプリン』

 『光ファイバー情報新幹線』を活用して地場野菜を談合坂の大噴水に繋ぐことは、光ファイバー計画を梃子にして上野原市が上昇トレンドに転換して行くと私が思い描いているシナリオの1つですが、この『朝取り野菜の直販活動』がもっと多くの上野原市の農家に広がって、多くの付加価値をもたらすために欠くことのできない条件があります。それは『朝取り野菜の直販活動はビジネスであって、趣味やボランティアの活動ではないこと、したがってビジネスに対する考え方と姿勢をしっかりと持たなければならない』ということであります。私は『ビジネスに対する考え方と姿勢』を『ビジネス ディシプリン』(ビジネスの紀律)と表現し、『私のビジネス ディシプリン論』を取り纏め、第9 WEB研究室としたいと思います。

『ビジネスとは何か』

 50年も前の学生時代に、私は、近代経済学とマックスウエーバーの社会理論をわが国に紹介されたゼミの恩師 青山秀夫 先生の『ビジネスの擁護』という小さな本を読みました(恩師からはゼミで実に多くのことを学びましたが、ここでは恩師を 岩波新書の『マックス ウエーバー』の著者とだけ紹介しておきます。マックス ウエーバーはドイツの社会学者ですが、その厳しい表情の顔写真には、学生時代に『決闘』をして頬に負った傷が写っています。若かりし頃の今なお忘れ得ない記憶のひとこまです。閑話休題)。

 『ビジネスの擁護』には『ビジネスはビジネスである』(Business is what business is.)という英米(アングロサクソン)の考え方が紹介されていましたが、『ビジネスは闘争の合理化』という恩師独自の考え方が展開されていました。

 私は『スポーツは見事に闘争を合理化しているし、碁・将棋・トランプ・麻雀などのゲームも闘争を合理化している』と思っています。私は『ゲーム オブ ライフ』という表現を度々使ってきましたが、私はこの表現に『合理化された闘争を繰りひろげるのが人生』というイメージを託しています。

 私は、社会に出てからずっとこの『闘争の合理化』という観点を基軸として『ビジネスとは何か』について考えつづけてきました(大学勤務を終わって、この欄に『上野原の市民は何を目指すべきか』について書きはじめてから『社会活動あるいは政治活動における闘争の合理化』についても考えざるを得なくなっています。閑話休題)。

『私の信用哲学』― その1:信用の構造方程式(再論)

 私は第7WEB研究室の第41講で、私の信用についての基本的考え方(哲学)を次のように書いています。
   『y』を信用、『x』を年数とし、10年で10の信用を得ようとする場合
    信用 y は  y = x(x>0)
   という式で書き表せます。この式は、信用は毎年1ずつ増加して10年後には

   10になることを示します。

 私が会社人間として、また、大学の教員としてこの身体で理解したことは、1年で1の信用を得ることはありえないということです。私が理解している信用の方程式 y は

      y =(1/10 )*x2 (x>0)  (『*』は『×』、『/』は『÷』を意味します)

   のような構造をしているということです。

 この式は x =10、すなわち、10年後には10*10/10=10で、10年後に10の信用が得られることを意味していますが、1の信用を得られるのは1年後ではなく、 √10=3.16 年後であることを意味しています。この3.16年の最後のころに失敗をして信用を失うと信用のレベルは再びゼロに戻ります。この場合、次の3.16年の間に失敗をしなかったとしても、1の信用を得るのに6.32年の歳月が必要ということです。


『私の信用哲学』― その2:公私の区分『公』は自分の前後と上下、『私』は自分の左右

 この式は、信用を得るのは当然のことながら『私が信用を得る』ことを意味していますが『誰から』信用を得るかについては何も語っていません。『私を取り巻く人々』というのがその答えですが、今この瞬間に私を取り巻く人々は、私の『前後』、『左右』、『上下』にいます。私は、『上下は上司と部下。前にはカストマー、後には会社の全社員。左は家族、右には友人』と考えるのが分りやすいと思っています。

 自分がカストマーに向かい合う時に『上には上司、下には部下、後方にはすべての会社の仲間がいる』という考え方です。

 ビジネスではことのほか『公私の区別』が大切です。

私の設定では、『前後の軸と上下の軸が公=オフィシャル』、『左右の軸が私=プライベート』ということになります。プライベートの軸も自分を支えてくれる重要な軸であることは言うまでもありません。仕事で壁にぶち当たっている時の家族の支え、あるいは親身になって相談に乗ってくれる学生時代の友人などが左右の軸の意味ですが、ビジネスは公の世界の事柄でありますから、左右の軸が表に出ることは差し控えるのが大切と私は考えています。

『私の信用哲学』― その3:信用を得るのはまずカストマー。だがそれだけでは十分ではない!

 ビジネスを行う上で、カストマーから信用を得なければならないことは自明の理でありますが、6方向すべてから信用を得ることが必要だと私は考えています。『そんなこと出来ない!』と言われるかもしれませんが、この6方向のすべてについて先の信用の構造方程式が作用しているというのが私の考え方です。ですから、日々これ努力というのがビジネスマンの日常であります。『ビジネス』とは『忙しさ』を意味しています。


 6方向のすべてに気配りすること、常にこころを忙しく活動させていないことにはとても実現できない事柄なのです。6方向のすべてに気配りすできるかどうかが、ビジネスに参加する人に求められる資質だと私は思っています。

〔注〕上野原市の一般道路から談合坂上り線サービスエリアへの道順は次の通りです。国道20号線の上野原高校の表示がある交差点から帝京科学大学に向かう⇒道なりに坂を蛇行しながら上り切って直進⇒突き当りのT字路を左折⇒集落の狭い道を道なりにしばらく進む⇒高速道路沿いの側道に出る⇒側道を下り方向に走る⇒変則交差点を直進方向に左へ坂道を上る⇒平和中学の前を通過⇒高速道路に架かった幾つもの橋を渡らずに高速道路の側道をなお道なりに走る⇒公園に差し掛かる⇒外部から自由に出入り出来るサービスエリアへの入り口に到着する。


2008−5−25   谷口ウエノハラ研究室  谷口 文朗TN




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