上野原地域の歴史の流れ − その1− 国道・鉄道の開通と水運の喪失 |
私たちは『民活が上野原市のエネルギー源』というタイトルを第3部のテーマとして『今日の上野原市を作り出したエネルギーは何だったのか』について、日頃の薀蓄をぶっつけ合いました。
まず最初に、上野原市への誘導をどのように行うかについての議論の中で『江戸の時代に上野原の地域は相模川を遡る水運の終着点で、藤野・秋山・上野原とその周辺の生活圏のマーケットととして、また、宿場町として繁栄していたということでした。
明治になって、国道が整備され、鉄道が敷設されて上野原地域の周辺に近代化の恩恵が及んだように思われたのでしたが、実際は国道と鉄道によって上野原は通過点になってしまっただけでなく、人々が首都圏に勤めるという形で地域のエネルギーが首都圏に吸い取られることになった』ということを確認しました。
上野原に生まれ育ったメンバーの議論の中で、上野原の方言には甲斐の方言と相模の方言が混じっているという議論がありました。これは相模川を遡ってくる船頭の言葉が上野原の方言に混じりこんだためだということで、関西育ちの私には仔細は十分分りませんが『説得的な論点』でした。
『水運による市場機能という江戸の時代の繁栄を決定的に奪い去ったのは昭和16年に行われた相模湖ダムの建設であった』と言うのも説得的でありました。当時は戦時体制で、ダム計画が有無を言わせぬ形で進められて、地域の繁栄にマイナスだから反対といった議論など行われる余地がなかったのでしょう。
上野原地域の歴史の流れ −その2− 絹織物産地と戦後の繊維産業の衰退 |
上野原を中心とするこの地域は、養蚕と絹織物の産地として日本が貧しかった時代を生き抜いて来たこと、その証が『桑の葉に機関車の煤煙がついてはならないという理由で、JR上野原駅が中心市街地から外れた現在に位置に作られたことである』と承知している私にとって、戦後に訪れた繊維産業の『ガチャマン景気』で賑わった一時があったことは十分理解できることでしたが、同時に、16年前に大学に着任するまで、東レという繊維産業の調査・企画部門でずっと仕事をしてきた私にとって、好景気は『わが国の繊維産業の長い土砂降りの中の束の間の晴れ間』に過ぎなかったこと、この地域の織物を生業とされた方々は、四六時中、織物事業から新しい事業への転換圧力を受け続けて来られたことが偲ばれたのであります。
私が上野原に住みはじめた今日までの間に、富士吉田地域では織機がしっかりと稼動しているだけでなく、織機への新規設備投資が行われるという『感動的な現実』に触れることが出来ましたが、上野原地域では、絹織物のネクタイがこの地の特産品としてJR上野原駅に展示されていても、織機が動く音を聞いたことがないというのが私の上野原での現実なのであります。
一方で、私が上野原の地域で訪問させていただいた会社は、もとは織物業であった、この会社ももとは織物業であった、この会社はもとは織機を作る会社としてスタートしていたというように、すべての会社が繊維産業からの転進または新しく事業を興された会社であるというのが上野原の地域の現実であります。
私が上野原市に着任した時、ちょうどグリーンヒル工業団地が出来上がったばかりの時でした。私はこの頃の日経新聞に出た更地の工業団地の広告の紙面を今も大切に保存しています。あちこちの工業団地が空き地のまま困り果てていたここ10年の間に、この工業団地はわずか5年で満杯になっています。
この中には地元の企業だけでなく、首都圏から転入されてきた『世界に聳える野中の一本杉』のような技術をもつ会社も存在していますが、私が上野原市で地方税を支払いはじめて16年、私の目に映った上野原市の企業はとにかく『元気』なのであります。
このような上野原地域の歴史の流れを確認する中で私たちに生まれてきた認識は、上野原地域は明治以来長い下降トレンドの渦に巻き込まれてきたが、今やそのトレンドは反転し、上昇トレンドが生まれているということでした。この反転は『短期間の下降トレンドの反転という小規模なものではなく、10年、否、50年・100年の超長期トレンドの反転と考えてもよい』と私は思っています。
それは何故なのか。その根源は何なのか。この問いかけに対する回答が合併市町村映像大賞応募に当たっての論議の中から生まれてきました。そのキーワードは『民活』でした。その具体例として指摘されたのは、@グリーンヒル工業団地、Aコモアしおつ、B上野原東京西工業団地、C帝京科学大学でした。
最近、町営・村営から民活に変わった具体例として、秋山温泉・町民プール・郷土びりゅう館も具体例として挙げられましたが、市立病院の公設・民営化も立派な具体例であると指摘されました。
地域の情報環境を一変させる市の光ファイバーによって、@ケーブルテレビ、Aインターネット接続、B地域の行政放送と自主放送を行う上野原ブロードバンドコミュニケーションズ(UBC)が『民活』であることは言うまでもありません。
2007年10月に、上野原インフォメーションの新着情報で、『強い製造業−上野原市の製造品出荷額の増加率は全国850市区中16位』(東洋経済社発行「 都市データパック2007」のデータ。現在上野原インフォメーションHPの新着情報のバックヤードに収録)という事実が紹介されましたが、その元気の根源は グリーンヒル工業団地にあると私の目には映っていました。
ここでは念のため、近隣市町村との比較データを再掲しましょう。
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2004年製造品出荷額 |
2002年対比増加率 |
全国850市中順位 |
上野原市 |
698億円 |
+40.7% |
16位 |
大月市 |
348億円 |
+0.7% |
501位 |
都留市 |
640億円 |
+5.3% |
360位 |
この『グリーンヒル工業団地』は『平成5年にわが国ではじめて地元企業が協同組合方式で造成した』ということであります。『前例のない手法で上野原グリーンヒル工業団地を生み出した上野原市のリーダーの魂が現在の上野原市を生み出している』というのが『民活の意味』であります。
繰り返しますが、日本でバブルがはじけて、産業界が大変な構造不況に呻吟していた最中にこの工業団地が『5年で満杯になった』ということは注目に値することでありますが、私は、それだけではなく、街中にあった工場が工業団地に集約され、より大きく、高能率な工場に作り変えられただけでなく、工場跡地に、郵便局・警察署など市民生活の根底を支える公共施設が生み出されたことをしっかりと評価しなければならないと考えています。工場跡地に公共施設を作るという流れから現在の上野原市役所が出来上がったといっても過言ではないでしょう。
上野原市を紹介する映像とナレーションの背景−第3部『民活』前半の5枚 |
私たちはこのような議論を取り入れて、次のようなナレーションを作りました。
「上野原市は、江戸の時代には宿場町として、甲斐絹(かいき)と呼ばれる絹織物の産地として、あるいは、桂川の水運を利用した広域マーケットとして賑わって来たましが、明治以降、鉄道と国道の開通や戦時中の相模湖ダム建設による水運機能の喪失によって、長い下降トレンドの時代を過ごして来ました。
この間、織物産地として好景気に恵まれた時もありましたが、多くの企業が織物事業から精密金属加工や精密プラスチック加工事業へ転換して行きました。この中で上野原の街の中に散在した地元企業が結束して、平成5年に、わが国ではじめて『協同組合方式による上野原グリーンヒル工業団地』を造成しました。
この工業団地は、バブル崩壊後の景気低迷の最中に、わずか5年で満杯になり、この地域に活性が蘇る端緒を生み出しました。平成16年時点の上野原市の製造業の製品出荷額の伸び率が全国850市町村中16位に躍進したというデータがこのことを物語っています」
このナレーションは、時間の制約で残念ながらどんどん短縮せざるを得ず、最終的に映像大賞応募作品の第3部『民活』前半の5枚の静止画像に配したナレーションは次の通りでした。
「上野原市では、この半世紀、ほとんどの企業が織物事業から金属とプラスチックの精密加工事業へ転換して来ました。この間、特筆されるのは、民間の事業として『コモアしおつ住宅団地』、『上野原グリーンヒル工業団地』、『上野原
東京西 工業団地』が造成され、地域の活性が蘇って来たことであります。帝京科学大学が誘致されたこともこの地域に若人の活気を呼び込むことになりました。平成5年にわが国ではじめて協同組合方式で造成された『上野原グリーンヒル工業団地』は、バブル崩壊後の長い景気低迷の中で、わずか5年で満杯になり、この地域の製造業の出荷を大幅に増加させました」
『民活』を直接表現する静止画像については、5万分の1の地図に民活で進められた4つのプロジェクトの場所を示すという手法を採りました。帝京科学大学については新しく発足した医療科学部の静止画像を配し、工業団地については、私自身がデジカメで撮影した画像を用いました。
航空写真を配した『コモアしおつ』について、ナレーションでは、@平成3年に入居がはじまったこと、A現在、1200軒の住宅でほぼ満杯になったこと、B3600人の住民が住まっていることを述べましたが、コモアしおつの持つ意味は『市の行政の評価指標』に直接つながるという意味で、特筆すべき意味合いを持つと私は考えています。
企業の場合は活動の成果が売上高や利益という数値で示されるのに対し、市役所という行政機関の活動の成果は数値ではなかなか示せないという問題があります。『市民の満足は数値にはならないし、逆に市民の不満も数値には出来ない。喩え数値が作られてもそれは主観的な数値で、客観性を欠くから使えない。しかし、人口と納税額は見間違うことのない行政の評価データになる』という観点であります。
この観点に立って行政を評価する場合、コモアしおつは人口・消費税・住民税・固定資産税などの点で、市の行政評価点を直接押し上げることになっているからであります。
グリーンヒル工業団地についても同様のことが言える筈であります(帝京科学大学については、私の経験から言いますと、住民票を故郷に置いたまま大学生活を送っている学生が少なくなく、選挙に度に『住民票を上野原市に移して投票するように』と督励しましたが、効果はありませんでした。閑話休題)。
上野原市を紹介する映像とナレーションの背景−第3部『民活』後半の3枚 |
ここまでで私たちはこの20年間の上野原市の活性を生み出してきた『民活』について説明してきましたが、ここから、これから先20年間の上野原市を活性化させる筈の『民活』についての論議と作成した静止画像について説明します。(つづく)
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